昭和50年?月?日 ????
明渡 孝
御理解第??節『????』
信心をさせて頂く目的は、あの世にも持って行かれ、この世にも残しておけるというほどしのもの。それを頂くということが信心の眼目であり、天地の親神様の氏子に対する願いなんです。
「氏子信心しておかげを受けてくれ」と、例えばもう、この世に生を受けて、私どもがたまたまこの世に出てきたというのではなくて、もうそれこそ、神様の一分一厘間違いのない計算のもとに、私どもはこの世に生を受けて、それを仏教的にいうならば、それこそ何百万年、または何千年分かりません。これはもう、仏教的に説くならば、もうどれだけの年限を経てこの世に生を受けたか分からないくらいです。
その間にはもう、それも仏教的にいうと、もうそれこそあの、ね、馬に生まれ変わったり、牛に生まれ変わったり、場合には猫に、例えばあの、お告げの中に、すくうあの、しゃもじにまで生まれ変わると言われるくらいですよね。あらゆるものに生まれ変わって生まれ変わって、そして、人間に、人間としてこの世に生を受けて、そして今度は、生まれ変わらんですむ、永劫おかげの受けられる、いうならあの世にも持って行け、この世にも残しておけるというものを頂いて、あの世にその、御霊の安心の生活ができるということ。そういうおかげを頂いてくれという神様の願い。
それになら、一生をです、例えば、五十年生きる、七十年八十年生きておっても、そのことをその、全然知りもせず、感じもせずにね、ただ我情我欲だけで一生が終わったことと、またこの氏子が何千年か分からんけれども、また難儀苦労せんならんと思うたら、神様の、それこそお心は、もうそれこそ暗く悲しい思いをなさることだろうと思う。
信心しておっても、ただ「おかげおかげ」おかげを頂くために信心があるように思うておるのは、これはもう間違い。おかげというのは、そういう、例えば信心の根本のところを分からせて頂くために、神様がこう餌を与えて下さるようなもの。ね。そこから、例えば信心に食い付いて、ほんとの信心を分かって、身にも心にもおかげを受け徳を受けて、そしてあの世にも持って行けれるといったような神徳を受けることに、本気にです。
それを、ならいうとどういうことかというと。この世に私どもは、いよいよ心を清めにきとるんだということになるんです。この世というとこは、人間の心を清めにくるために来とる。それに、清めるどころか、もう汚れ果てていくようなことではね、ただ「おかげおかげ」に終始したんでは、神様の願いはね・・・。
こんな話をしておる時でしたよ、綾部さんとそこに、ちょうど高芝さんと二人で参ってみえた。高芝さんは、そこに道子さんがおりましたから、そこへやらせて頂いて、あの、その話をさせて頂いた途端にそこのあの、控え室でね、それこそ控え室がバーンと弾き割れるような大きなお勇みがあったですよ。
「この世には、もう確かに人間は魂を清めに来たとですよ」と言うた途端でした。そして、今言うその、仏教的なその因縁の問題なんかについて話をしておる時でした。だからね、私どもが、どうでもひとつやはり、お徳を受けるための信心をね、さしてもらわんと。
焦点を、それからというて、なら私どもの日常茶飯事の中に、一事が万事にお取次ぎを頂いて、お願いをして、そしておかげを受けて行くと同時に、そのことを通してお徳を受けていくという、いうならば、頂き方をいっちょ身に付けませんとね。
あの、今久留米の今村さん達が、親子でああして毎日お参りになりますが、最近はあの、娘さんのかつこさんがね、神様からいろいろお知らせを頂くんです。しかもあの、ご心眼なんかでも、もうそれこそカラーで見事なね、いろいろなお知らせを頂く。もうご神夢が非常に的確頂きよった。
この頃はもう、もうとにかく、あのして、御理解を例えば頂きよっても、まあ頂く。今日もあの、御理解を頂きながらあの、緋鯉をね、鯉を頂いた。
ちょうどその前にお母さんがあの、朝参りしてみえておられるから、そのことを「この頃かつこが、こんなふうにいろいろお知らせを頂いてね」というその、をお届けしておられました。そのお届けがね、たくさんミミズがおるげな。あのミミズがね。そして、そのミミズが蛇に変わっていったところを頂いたとこういう。
で私はあの、そのことについてお届けさしてもらいおったが、それはあの、お徳を受けるということ。例えばここでは、お徳のお知らせを川のもの。鯉はその最高のもの。鯉のお知らせは最高のご神徳のお知らせを頂く。だから、そのご神徳を頂くためには、餌が要る。いわゆるミミズが要る。ね。ミミズの実体は蛇である。蛇ということはめぐりである。そのめぐりのおかげでご神徳を受ける。
してみるとそれは、めぐりのために難儀をしておるんですけれども、その難儀そのものは、だから「神愛」ということが分かるでしょうが。ね。だから、そのめぐりを、が、ならミミズをね、付けて徳をこうやって釣らせてもらう。徳を頂かして頂くものです。
だから、ははあ、今朝からお母さんがお届けしておったことと、その、今またここで鯉を頂いたというからね。だからあの、今話したことでしたけれどもね。その鯉たい。その鯉ば頂かんならんたい。それば、ならただ頂くじゃできません。やはりそれにはそれの、やはりその、ミミズならミミズが、餌がなからければその徳が受けられん。
ところがみんなが、ミミズは気色が悪かとか、蛇は嫌だとかと言うけれどもね、それを私は、いうなら、お徳を頂くひとつの餌と思うてね、その鯉を釣り上げさしてもらうおかげを頂かんならん、と言うて昨日話したことでしたけれどもね。
私達は、何と言うても、それぞれ何々かの問題を通して、お徳を受けるということに焦点を置かなきゃいけないということがね、分かります。これはもう私どもが、あの世にも持って行けるということは、永劫助かるということです。永劫。ね。
ところがなら、私どもがこの世で助かっとらんで、それこそもう心は汚れ果てたままもし行くとするならばです、ね。私はどういうことになるだろうか。それこそまた何か、それこそね、もう何が何と言うてもしゃもじに生まれ変わるのが一番辛かっち。と誰かが言うたという話をね、昔私はばばから聞いたことがありますけれども。
もう熱いそのお汁の中にいつも浸けられとる。それでこれが一番酷かと言うたようなことですが。まあしゃもじなんかに生まれ変わるというようなことは思いもされませんし、また、なら牛に生まれ変わるとか、馬に生まれ変わるといったようなことも、それは分かりません。分かりませんけれども、私どもが永劫あちらで、「安らぎの御霊」「喜びの御霊」としておかげを頂けれるためにもね、これは私どもがどうでも本気で、ならお徳を頂けれるチャンスに恵まれ、しかもそういうことをその気になれば教えて頂けれる教会にご神縁を頂いたということをね、無にしてはいけないと思う。
今朝から、田中さん、そこの田中さんがお届けされますのに、昨日あの、中村さんと一緒におばあちゃんとこのお見舞いにやらせて頂いた。そしたらもう、ほんとにあの、もう以前から綺麗じゃありなさったちゅう、それはきっとお世辞でしょうばってんね。(笑)もうとにかく綺麗になっておりなさるとにビックリしたとこう、私はまだ、始めからおったので分からんです。
分からんばってんね、例えばもう、ほんとにだんだんお徳を受けて行ったら、綺麗にならなきゃならないはずです。それはもう死に顔なんかはね、お徳を受けて行くということはもう、死に顔見りゃ分かると言われるくらいです。
ですから、そういう例えば不思議な働きというものがあるんです。なるほど、今朝方の御理解を頂いて下さって、ああ家のおばあちゃんは、やっぱりお徳を持って行けれる人だなというふうに思うんです。どうでもひとつお徳をね、持って行けれる。しかも、子孫にも残る。
今日はあの、そこの勿体島のしげこさんが今朝参り一緒になさいます。原さんの姪子さん。今朝らからの御理解を頂いてから、私どもが田主丸におる時にね、お話を聞いたことがありましたち。田主丸の湊町というところに、もう当時八十歳ぐらいになられるおじいさん。もう奥さんは、もう二度目かかあで、それでももうやっぱり、まあ六十ぐらいのおばあさんと二人で、当時の椛目に参ってきましてね、そしてその、今、当時の椛目ではたいへん人が助かるということで、その噂を聞いてね、椛目はどこじゃろうかちゅうたら、ちょうど、もと(きど?)が停まりよった、ここに機関車が通っておりました。きどが停まりよった、ほんなあそこの前の、もと(みせしぶ?)だったとこ。「はあ、そんならあんた、あの麦生から行っちゃるとこじゃなかの」「あそこですよ」ち。
したら、そのおじいさんが言わっしゃったことがね、はあ、あそこなら、子供さんか孫さんか知らんばってん、あそこ、そんなら助かるはずばのっち仰った。ということを、その聞いたという話を今日はしげこさんがしておられました。ね。
それはね、私もあの、その方のお取次ぎをさして頂いたんですけれども、作右衛門というのが私の曾叔父にあたる、全然知らない。私が知ってるのは、作太郎というおじいさんが、もうこれこそ生仏さまのような方でした。( ? )の長い間は、( ? )をしておりまして、もうそれこそ、もう仏教のあれに帰依し切ってというですかね。生臭気をとりませんし、同時にあの、池さらいがあっても、魚をたくさん捕りますと、それをみんな放生しよりました。
というような人でしたから、あの、そのお父さんの作右衛門という人がその、八十になるおじいさんが知っておられる。「はあ、作右衛門さんの、いうならば曾孫にあたる人。そんならば助かるはずだ」と言う。
だから、そういう善根功徳というかね。それこそ、生仏様じゃなかじゃろうかと言われるような心の状態の人達が、私の先代先代また上にあってね、私のここに現われとるということから考えると、やはりお徳というものがあるということが分かりますよね。
だから、残されるということが分かりますよ。あの世にももちろん持って行ける。けれども、この世にも残しておけるというものです。信心の眼目は、もうこれですから。ね。おかげは、ずっと言うたら枝葉です。ね。
けれども、枝葉の方が主になって、そして、お徳を受けるということには疎かになっておるようなことでは、せっかく信心頂いておっても、信心の値打ちがない。はい、おかげを頂きました。